神本を求めて

小説を読みまくって面白い本を見つけたら紹介するブログ

『香君』上橋菜穂子|植物(稲)と虫の香りファンタジー

もはやファンタジーというより科学小説

 

f:id:kodokusyo:20220408153206j:plain

美しい世界に迫りくる”ヤツら”

作品紹介

上橋菜穂子による『香君』は2022年に文芸春秋社より出版された作品で、単行本の上下巻で900ページ級の大長編である。

ファンタジー界の重鎮である上橋女神は、これまでにも『守り人シリーズ』や児童文学と見せかけて子どもに読ませて良いのか怪しい『獣の奏者』、そしてこれまた児童文学を超越した医療ファンタジーの『鹿の王』という、これでもかというほど世界観が創り込まれたハイクオリティな作品を上梓されてきた。本作『香君』も安定の上橋品質で、上記の神作品群と比べても遜色ない超絶傑作に仕上がっているので安心して手に取ってほしい。

今回のテーマはおおまかにいえば”農業”である。上橋菜穂子が描く物語は、ファンタジーの皮を被ったガチ科学小説の傾向があるのだが、『香君』はその傾向が過去最高となっていて、架空の世界と現実にはない植物や虫、超人的な嗅覚を除けば、現実世界から大きく逸脱した部分はなく、SF好きの私からすれば『香君』を読んでいる時の感覚はまさにハードSF(科学がベースの本格的なSF)と変わらない。

そんな創造主・上橋菜穂子の新たなる代表作について語っていきたい。

 

 以下、あらすじの引用

遥か昔、神郷からもたらされたという奇跡の稲、オアレ稲。ウマール人はこの稲をもちいて帝国を作り上げた。この奇跡の稲をもたらし、香りで万象を知るという活神〈香君〉の庇護のもと、帝国は発展を続けてきたが、あるとき、オアレ稲に虫害が発生してしまう。時を同じくして、ひとりの少女が帝都にやってきた。人並外れた嗅覚をもつ少女アイシャは、やがて、オアレ稲に秘められた謎と向き合っていくことになる。『精霊の守り人』『獣の奏者』『鹿の王』の著者による新たなる代表作の誕生です。

 

THE・ページをめくる手が止まらない本

香君』は上橋名物”開幕早々ベリーハード”を惜しげもなく披露しているので、掴みはOKで一気に引き込まれる。その後に登場人物ラッシュや世界観の説明があるので少し手間取るかもしれないが、そこを乗り越えて世界観に馴染んでくると物語に強く引き込まれていくのは間違いない。

しかも第四章以降は怒涛の展開がひたすら続き、全体で900ページ近くある内の実に500ページ以上に渡ってページをめくる時間すら惜しくなるほどで、読み終わるまで何も他につかなくなるかもしれない。少なくとも私は下巻は一気に読み進めてしまったし、他の読者の意見を見ても、後半は一気読みしたというを多々見受けられるので、本作の破壊力は絶大である。

上橋作品は絶妙なミステリー要素が良い仕事をしていて、巧みに読みやめるタイミングを失わせるのだが、『香君』は上橋史上最強の徹夜本かもしれない。

 

洗練された完成度の高さ

上橋大先生は『守り人シリーズ』などのあとがきで、”ノリで書いてる”といった内容の発言をされていて、実際に『守り人シリーズ』や『獣の奏者』はそれなりに行き当たりばったりな印象を受けるのだが(もちろんノリで書いても完成度は高い)、『鹿の王』はそこそこ計算された感じがするし、それに続く『鹿の王 水底の橋』はミステリと言っても過言ではないほど計算された物語になっていた。

しかし『香君』は水底の橋の比ではないくらい物語がしっかりとまとまっていて、テーマも一貫しているので、脇道に逸れたりせず大団円を迎えるまで綺麗に物語は展開されていく。徹底的に”オアレ稲”という本作の世界において、神からもたらされたとされる、どこでも育つ代わりにオアレ稲を植えると他の植物が育たなくなる謎の性質を持つ稲の秘密に話が集約されているためである。

この奇跡の稲とオアレ稲をもたらしたとされる香君の威光により周辺の藩国を支配した帝国と、従来の農業から奇跡の稲に切り替えて依存してしまった諸国が、オアレ稲が訳あって不作になったことで直面する問題にどう対処するのかが、物語の軸となっていて、その問題に超人的な嗅覚を持つ主人公アイシャが苦心して立ち向かっていく様は、とても分かりやすく、そして非常に面白い。

 

気付けば好きになっているキャラクターたち

登場人物は長い物語に見合ったそれなりの数がいるのだが、メインキャラクターは超人的な嗅覚を持ち、香りで万物を理解できる主人公の少女・アイシャ、同じくアイシャほどではないものの優れた嗅覚を持つ帝国の重鎮マシュウ、そして常人並みの嗅覚しか持ち合わせないが活神である香君として担ぎ上げられたオリエの三人である。

もちろん他にも魅力的な登場人物はいるのだが、やはりメインは上記の三名である。そしてこの三人は、正直なところあまり読み進めていないうちは、これまでの作品の良キャラに比べたらイマイチ印象が薄いかなぁ...などと思っていたが、物語の終盤ではファンクラブを結成したいほどみんな好きになっていた。ちなみに皇帝や帝国の重鎮オブ重鎮の男もかなりの良キャラだと思う。

上橋作品が素晴らしいのは、徹底的に創り込まれた世界観だけでなく、魅力的な登場人物がいることが大きな要因だとあらためて認識した。私はこれまでに相当な数の小説を読んできたが、ぶっちゃけクソつまらない話でもキャラが良ければ万事問題なしということに気付き始めてきたので、最高の物語に魅力的な人物を想像する上橋大先生はチートなのだと思う。

 

人はそれをハードSFと呼ぶ

私は知性が感じられない小説が嫌いである。本を読んで人生を変えるといった残念な考えは甚だ不愉快だし、自己啓発本やビジネス本を読み漁っている人は心底軽蔑したくなってしまうのだが、それでも小説を通じて何か学べた方が良いとは思っている。つまり著者が労力を費やして、気合いの入った取材や大量の参考文献を読み漁って得た知識から書かれる物語が好きなのだ。

そんな私にとって『香君』はこの上ない素晴らしい作品だと言える。ファンタジーだからといってやりたい放題することは決してなく、むしろファンタジーにもかかわらず極めて現実的なのである。特別な性質を持つ”オアレ稲”という架空の稲を描きつつも、その性質を極めて科学的に分析していき、試行錯誤によって秘密を暴いていく様はもはやハードSFと言っても過言ではないし、そんじょそこらのSF作品よりも遥かにサイエンスしている。巻末に主な参考文献だけで20冊以上の本が挙げられているし、コネを使って参考にした書籍の著者とZOOMミーティングをして、より正確にすることに努めたというのだから脱帽である。

そもそも本作には上橋作品でおなじみの戦闘シーンが実質存在せず、ただひたすら”オアレ稲”を科学しまくっているので、SF好きだがファンタジーはあまり好きになれないという方には『香君』をぜひおすすめしたい。

 

新たなる代表作

本当はもっとモリモリ語りまくりたいが、ミステリー的な側面が強い本作ではあまりネタバレすべきではないと思うので、ぼちぼちまとめてみたい。

香君』はそこまで派手さは無いが、全体的な完成度の高さは他の作品を圧倒しているように感じる。また学者としての上橋大先生の能力が遺憾なく発揮されているので、著者自身の集大成のような印象を受ける。これからどのように評価されていくのかが心底気になる次第である。

 

上橋菜穂子は神説

これまで新潮社、講談社KADOKAWA、そしてこの度文芸春秋社に物語を与えたもうている。ひょっとしたら他の大手出版社のためにも、物語を温存していたりして....などとどうでも良いことを考えてしまうのだが、その考えはあながち間違っていなかいのかも。早川書房からSF寄りのファンタジーが出たら嬉死するなぁなどと思いつつ締めたい。

 

 

関連記事

kodokusyo.hatenablog.com

kodokusyo.hatenablog.com